初めての精神科。
こんにちは、フータロです。
今日は近所の精神科に行ってきました。以前から何回か行こうかなと思ったことはあるんですが、ネットで検索しても情報量が多すぎて迷ってしまい、結局先送りにしてしまっていました。ですが、この1ヶ月ほど不眠や食欲不振などの身体的な異変も感じられたので、なるべく近所で、なるべく信頼できそうな(更新が止まっていなかったり、治療方針が明確になっているなど)HPを掲載している病院に行ってみることにしました。
10分前くらいに受付を済ませると、簡単な問診票とチェックシートを記入する時間がありました。チェックシートの方は、右側に結果が書いてあるらしいページがあり、そこは開かないようにとのことでした。ネットで検索するとよく出てくる、ストレスチェックみたいなものだったので、どれほどの信頼性があるかは疑問ですが、チェックしていて自分でもストレスが高いであろうことは分かりました。
記入を終えて10分後くらいに、先生の診察がありました。時間にして20分くらいでしょうか。あまり突っ込んだことは聞かれませんでした。なので、自分で思いつく不調の原因を話して、それを先生が聞いて、適宜質問してくれる、という形でした。
僕が話したのは、論文が書けない、交際関係がうまくいっていない(というか解消した)ことがメインでした。いま思うと、さらにその原因をあまり話せなかったような…。あとはこれまでも書いてきた、不登校の経験や、発達障害なのではないか?という疑問も話せませんでした。必ずしも専門の先生ではないことを知っていたので、話そうかどうしようか迷っているうちに、診察時間が終わってしまいました。笑
自分の抱えていることを、他の人に伝えることは難しいなと思いましたね…。先生はそれでも話を聞いてくれて、色々と考えてくれましたが。とりあえず、不眠が落ち着けば色々と楽になるかもしれないね、ということでした。これは、僕も確かにそうだと思うので、1週間分の睡眠導入剤を処方してもらいました。
診断は、不眠症と不安障害でした。それに加えて中程度以上のうつ傾向がある、とのことで、来週も通院して下さいと言われました。
ということで、とりあえずは睡眠導入剤の効果次第って感じですね。このところ毎日飲酒してたので(缶ビール1本ですが)、それができないのはちょっとつらいですね…。この機会に少しだけ断酒してみようと思います。
なんていうか、しっかりしなきゃいけないんですよね。それはよくわかってるんですが、もともと僕はストレスをためやすいし、それを人に聞いてもらうってことが苦手なんです。なので、いつも1人で抱え込んで、1人で発散(できてたのかは分かりませんが)してました。
僕が交際していた相手は、そんな僕のことを理解してくれる人で、それが僕にとってはありがたかった。でもいつも僕が思っていたのは、「じゃあ相手はどうなんだろうか?僕の浮き沈みに振り回されて平気なんだろうか…?それにひきかえ、僕は相手を理解できてるんだろうか?」ということです。
もちろん、そんなのは耐えられるはずがありませんよね。僕はそれを知りつつ、自分を変えることができませんでした。そしてある時、相手は僕に静かに見切りをつけたんです。「もし、その最後の段階の前に、少しでも自分を変えられていたら…」いつ止むともしれない後悔はしばらく続くんでしょう。
僕は大きな目標を失ってしまいました。つい1ヶ月前までは、必死で就活をしたり、論文を書いたり、貯金をしたりする目標がありました。それが、今では自分のために生きているだけになってしまったような気がします。
それが、いま一番つらいことです。
死ぬのもまっぴらですが、抜け殻のように生きるのも嫌ですね。これまでも繰り返してきたように、時間が癒してくれるんでしょうか。
…あまり悩んでも仕方ないのかもしれませんね。でも、簡単には忘れられませんよ。
9月から学校ヤメます。5
こんにちは、フータロです。
9月になっちゃいましたね。時間の流れは早いものです。僕が不登校になったのも、9月1日からでした。
https://twitter.com/kamakura_tosyok/status/636329967668695040
以前、鎌倉市図書館のツイートが話題になりましたが、死にたいくらい悩んでるなら、逃げるのも手だと思います。ですが、それも簡単なことじゃないんですよね。家族であれ、友人であれ、先生であれ、周囲からの理解がないことには安心して逃げるのは難しいと思います。僕は自分の体験からそれを強く感じたので、鎌倉市図書館の当該ツイートは、逃げてもいいという、いわば「大人からの承認」なんだと思います。僕が15歳の頃はツイッターなんてありませんでしたから、ある意味、現代だからなせる技なのかもしれません。
さて、前回の続きを書いていこうと思います。前回は、中学生最後の学期を迎えたところでした。
あ、前回書いたと思うんです、僕の記憶は多少曖昧だと。さっき思い出したんですが、学校生活の一大イベントを忘れてました。なんだと思いますか?2年生から3年生にかけてあるイベント…。そう、修学旅行です。笑
たしか2年生の2学期でしたね。もちろん?行きませんでした。不登校なのに修学旅行に行く意味を見出せませんでしたし、修学旅行先も、家族旅行なんかで行ったことがある場所だったので、それほど魅力も感じませんでした。積立金は帰ってきたらしいので、それが救いですね。笑
はい、こんな感じで忘れてることがあると思います…。思い出したら追記として書きますので、大目に見てやってください。それでは、続きです。
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3学期になると、担任や友人たちからの誘いが増えてきました。「クラスみんなで卒業しよう」ということですね。正直、そんなことに意味はあるのか?と冷めた思いで誘いを受けていたことを白状します。ただ、これまで頑なに、「学校へは行かない!」という意思表示をしてきた僕に対して、まだ希望をかけてくれるのかという気持ちもありました。どうするべきか。非常に悩みましたね。
僕は、決断します。授業時間に学校に行くことにしました。とは言っても、いきなり教室ではなく、保健室登校だったり、特別教室登校から始めました。そういえば、養護教諭の先生もとても僕のことを気にしてくれていて、ことあるごとに身体測定に来ないか、と手紙を書いてくれてました。なので、信頼できる先生に付き添われていたおかげで、この登校はさほど苦にはなりませんでした。友人たちも休み時間になるとよく尋ねてくれましたし、先生たちも空いた時間を補習に当ててくれました。
そんな登校を2週間くらい続けた頃でしたか、ついに、僕は教室に行ってみないか?と友人から誘われました。この時僕は、不思議と悩みませんでした。登校するようになってから、ある意味では覚悟を決めていましたから。その代わり、また攻撃してくるような奴がいたら、その時は…ちょっと大げさというか物騒ですが、殺してやると思ってました。いや、いま思うとちょっとヤバい奴だなと思うんですが、言い換えれば、もう逃げたくなかったんです。逃げるくらいなら、立ち向かってやろうと思ってました。
僕は、友人たちに囲まれて保健室を出ました。その時は休み時間で、たしか5限目の英語の授業に行ったんだと思います。教室の前まで来ると、さすがに心臓はバクバクです。そして教室に入ると、若干の視線を感じながら、僕は机に案内されて座りました。ああ、教室ってこんな感じだったんだなんて思いながら、僕は1日休んでいただけだったような錯覚すら覚えました。隣の席の生徒は、名前を知っている程度の仲でしたが、普通な感じに喋りかけてくれて安心しました。それに英語の授業は、僕の家まで家庭訪問してくれていた先生の授業だったので、とても落ち着いで授業を受けることができました。
こうして、僕は少しだけ、失われた時間を取り戻すことができました。翌日からは、それこそ普通どおりに通学バスに乗り、学校に行くようになりました。もちろん、先生や友人のサポートを受けながら、でしたが。とはいえ、3年生の3学期なんて、たいした時間じゃありません。2月に入れば入試があるので、僕が再び普通の学校生活を送ったのは、2週間ほどでした。笑
それでも、僕はこの2週間だけでも中学校生活を送れて、良かったかなと思っています。
そうこうするうちに、高校入試がやってきました。僕は模試なんて受けてませんでしたし、ありえないことに、どんな問題が出るのかすら知りませんでした。笑
ただ、数学と英語をひたすら勉強しました。
そして入試当日、母に付き添われて遠く離れた志望校まで行きました。母を待合室に残して、僕は教室に入りました。見渡す限り、「頭良さそうな」奴らばかり…。これには完全に呑まれましたね。こいつらは、俺とは違う!少なくとも、3年の夏休み明けに二次関数の解き方を知ったような不届き者は、俺しかいないだろうな…と思いました。
試験の内容は、覚えてません。笑
ただ母には、自信あり!と伝えましたね。こんな遠くまで付き添ってもらって申し訳ないですもん。
1週間後、合格発表がありました。しかし、諸事情から見にいくことができなかったんですよね…。なので、結果は担任経由で教えてもらうことになりました。正午すぎ、家の電話が鳴りました。僕は、出ませんでした。代わりに母が出ました。間違いなく担任からの電話です。
僕「なんだって?」、母「あんた、落ちてたって…」
はい、当然ですが落ちました。笑
それはいいんですが、高校どうしようかっていうことになりますよね。幸い、定員割れしている高校が、何校か2次募集をかけてましたので、その中から選ぶことにしました。僕が選んだのは、僕の中学校の学区から一番遠い高校でした。偏差値は、第一志望の半分以下でしたが。笑
さすがにここには合格しましたね。両親も一安心したようでした。
そして、残るは卒業式です。これはもう余裕でしたね。憂鬱さなんかなくて、むしろやっと解放された!と思いました。ただ、卒業アルバムは最悪でしたね…。1人だけ合成写真でしたから。それもかなりひどい技術の。笑
まあこれも思い出の一つだと思うことにしました。
もう気分は高校生活に向いてましたから。知らない場所で、知らない人だらけの高校生活で上手くやっていけるか。それだけが心配でしたね。
結果的に、高校生活ではほとんど問題なく卒業まで過ごしました。勉強にも、部活にも、最低限取り組みましたし、何と言っても無欠席で卒業しましたからね。信じられませんよね。笑
でも、一回休むとまた行けなくなるのでは…という強迫観念があったのは事実です。でも、一応立ち直ったのではないかなと、思います。
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以上で、僕の不登校体験は終わりです。
僕は幸い、とにかく恵まれた不登校児だったということに尽きます。そういう意味では、特殊な体験をしたのかもしれません。いろいろな葛藤を抱えながらも、何とか立ち直ることができたのも、周囲の支えがあってのことでした。必ずしも、順風満帆な?不登校ではありませんでしたが、ここで書ききれなかったことは、また追々書いていきたいと思います。
僕は、不登校であったことを後悔していないわけではありません。失ったものもたくさんあります。学力、学歴、人間関係などなど、10年経った今でも影響が残っていることもあります。ですが逆に考えると、不登校になっていなかったら、今の自分はありえないよな、とも思います。そう思えるだけで、僕の不登校体験は必ずしも悪いものではなかったのだと思っています。
後日談になりますが、4年ほど前に、文部科学省の不登校児の追跡調査依頼を受けました。僕は、躊躇なく承諾しました。それはなぜか。大した理由ではありませんが、不登校って、やはりマイナスなイメージが否めませんよね。でも、そのイメージがあるからこそ不登校という道は選びづらいんだと思います。本当に辛いときは逃げるというか選択肢があってもいいはずなのに、それが悪であるかのようなイメージあるように思います。なので僕のような、ある意味では充実した不登校体験というのは、そのイメージを緩和させることができるのではないか、という思惑がありました。もちろん、僕1人のデータなんて統計にしてしまえばさしたる意味を持たないかもしれませんが、僕にできることはしよう、と思ったんです。
電話で調査員の方は、僕の不登校体験や、その後の進路、そして現状を尋ねました。僕はそれに答え、周囲の人々に恵まれていたのだと伝えました。調査員の方は、不登校を経験した人のうち、僕のような人はあまりいないのだ、と教えてくれました。確かに、僕は不登校から高校に進学し、無欠席で卒業し、大学にも進学したので、その事実だけを見れば普通の人と変わらないじゃないか、と思われると思います。ですが、「普通」なんて言葉ほどあてにならない基準はないと思います。不登校の時も、僕は自分が普通だと思ってましたし、不登校だから人生が終わったとも考えませんでした。僕にとって、僕の人生はいつでも「普通」です。悪い意味ではないですよ。
ちょっと長くなってしまいましたね…。
僕はいままで、不登校のことをこれだけ詳細に誰かに伝えたことはありませんでした。じゃあなぜいまここに書こうと思ったのか?それも難しい質問です。
僕はいい意味でも悪い意味でも、不登校体験は僕の人生に多大な影響を及ぼしていると思っています。
いま現在、僕はちょっとした心身の異変を感じ取っています。この異変が、不登校だった頃に感じた異変と似ているような気がするんですね。定かではありませんが…。
なので、ちょっと自分の記憶を整理する中で、思い出すことがあればいいなと思ったんです。あとは、単純に書いてみたかったから。そこに理由はあんまりないのかなと…。
という感じです。ここまで何日かかけて過去の話をしてきたので、いま現在の僕の状況をお話しすると、上述のように僕は心身の異変を感じています。それがちょっと日常生活レベルで支障が出てきたので、明日、人生初の精神科に行ってきます。詳しいお話は、明日の通院後に書いてみたいと思います。
初の精神科ってちょっと緊張しますね…。
良い先生だといいんですが。
それでは、また。
9月から学校ヤメます。4
9月から学校ヤメます。3
こんにちは、フータロです。
毎回こんにちはで登場してますが、ブログは夜に書いてるので、こんばんは、ですよね。でもこれって大学生になってアルバイトを始めて驚いたことの一つなんですが、社会では時間に関係なく「おはようございます」なんですよね。初めて夜勤のアルバイトを経験した時に、先輩から指摘されて、「ほう、なるほどな」と思いました。仕事のはじまりが1日の始まりってことなんですかね?何だか社会ってすごいとこだなあって感じました。笑
たぶん自分が夜働くようになってから、世の中には夜働く人もいるんだなあと実感しました。何というか、軽く世間知らずですよね。笑
でもコンビニもろくにない、夜は9割方の人が寝静まるような田舎から出てきた身としては、いわば都会という場所を特徴づける出来事でしたね。
まあここでは「こんにちは」で通していますが、それは、「こんばんは」って何となくあまり好きじゃないし、「おはようございます」だと仕事になっちゃう(これ、仕事じゃないですもんね)気がするので、まあこんにちはが無難かな、というだけの理由です。夜に言う「こんにちは」も嫌いじゃないですね僕は。
はい、どうでもいいお話、失礼しました。
前回は、僕が「家族公認の不登校」になったというお話でした。その続きを書いてみたいと思います。あ、この体験を書いていて思ったんです。僕の記憶力の問題だと思うんですが、この頃のこと、結構忘れてるもんだなと。笑
まあ普段から都合の悪いことはすぐ忘れてるので、その一種なのかもしれませんね…。ですが印象的な出来事は覚えてるので、ほぼ嘘は書いてないと…思います…。
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3日間の引きこもり期間を経て、僕は堂々と?不登校になりました。ですが、理由だけは話したくなかったですね。なんでか。カッコ悪いからです。親に、イジメっぽいことされて学校行くのが嫌だとか、言いたくないですよ…。その気持ちを知ってか知らずか、両親は最初のうち全く理由を尋ねませんでした。まあ以前からたまに明らかな仮病を使って休んでいたので、うすうす感づいていたのかも知れませんね。ですが、その時は理由を聞かれないのがありがたかったです。
そのうち、担任や顧問から家に電話がかかってくるようになりました。さすがにこれはおかしいと思ったんでしょうね。でも、僕は電話に出ることを頑なに拒否しました。何となく信用できなかったから。担任や顧問はその時までほとんど何もアクションを起こしてくれませんでした。まあ、両親と同じく気付かれないようにしていたので当然といえば当然なんですが、正直気付いて欲しかったですね。何を今さら…とそういう思いでしたので、話しても無駄だと思いました。しかも、学校来いよって言われるの分かってましたからね。なので、電話は全て母が対応してくれました。
しばらくして、親しい友人からも電話がかかってくるようになりました。それにはさすがに出ました。もちろん、まず母が電話に出てから、ですが。当時は夜電話がかかってくるごとにビクビクしていて、電話恐怖症みたいになってたので…。友人からの電話はありがたい反面、何だか申し訳ないな…という気分になりました。みんな、やっぱり学校に来いよって言うので、ちょっと気も重くなりましたし…。でも、学校にも味方はいるんだなと、安堵した記憶があります。
さらに、チームメイトからも電話がかかってくるようになりました。最初は主将から(当時、すでに3年生が引退してたので、主将も同じクラスでした)。これにはちょっと、嫌な思いになりましたね…。お前ら、傍観者だったり、結構攻撃してきた奴らじゃん…と何が何だか分からなくなりました。実際、本人たちは僕を攻撃している自覚がなかったのかも知れません。それは往々にしてよくあることなんだよな、と今では思えます。ですが、当時は自分の身を守るのに精一杯だったので、反発しかありませんでした。
あ、僕がチームメイトからされてきたこと、あまり書いてなかった気がします。思い出したくないし、記憶から消してる部分が多いんですが、殴られたりとか、物理的な攻撃じゃないんですよね。主に、精神的な攻撃で、彼らは僕のライフポイントを削ってくれました。
最初のうちは良かったんですよ。というか、最初は結構仲良くやってました。むしろ、僕が誰かを攻撃する側に立っていたとも言えます。小学校のチームメイトがいたという話しはしましたよね?あろうことか、僕は彼を攻撃していました。野球部に入ってわりと早い段階から、彼はチームメイトの攻撃のターゲットになりました。理由は、体型です。ちょっと太っていて、色白だったんですよね。でも、普通ですよ。僕は彼が、チームメイトから「白豚」と言われるのを聞いて初めて、まあ確かにちょっと太ってるけどなあ、と思ったくらいでした。彼は1ヶ月ほどの間、そんな「口撃」を受けていました。僕はそれを、傍観しました。彼から明示的にも黙示的にも、助けて欲しいというかサインはありませんでした。それをいいことに、僕は傍観者を貫きました。
でも、彼は野球のセンスがありました(っていうと、努力してなかったみたいに聞こえるかも知れませんが、とても努力家でした。少なくとも野球に関しては)。少なくとも僕よりは。それが、顧問や先輩やチームメイトに認められてきたんですね。後に、彼は僕を攻撃する側に回ります。僕は、彼から攻撃されても、それは受け入れなければいけないんだ、と思っていました。彼からすれば、僕は親友を見捨てた奴なんですから。彼がそう思っていたかは分かりませんが、僕は、彼に助けを求める権利はないと思ってました。僕は傍観者になったことを、今でも後悔しています。
しばらくして、能力も低くて、ノリも悪い僕が攻撃の対象になりました。僕はメガネをかけてたので、メガネ、と呼ばれるようになりました。なぜかは分かりませんが、唾を吐きかけられます。理由なんてないんでしょうけど…。ミスをすると、罵倒される。練習している姿を、笑われる。以前も書いたように、下校途中の買い物がバレて、部員全員の前で涙を流して謝ると、辞めろ、と罵倒される。喋り方や髪型を、馬鹿にされる。
これらがひどい「イジメ」なのかどうか、自分にも原因があったのかどうか、それは今となっては分かりません。それに、今ではどうでもいいことです。ですが、それらが原因で僕は不登校になりました。
また、これらのチームメイトの半数が同じクラスだったので、教室内でも似たような感じでしたね。
長くなりましたが、そんな彼らが、学校来ねーの?とか言うんですよ。分からん、って言うしかなかったです。行くとも、行かないとも言う気になりませんでした。いま思えば、顧問から言われて電話しただけなのかも知れません。しばらくして、チームメイトから電話は来なくなりました。
次にアクションを起こしたのは母親でした。担任や友人たちからの電話がひと段落してきた頃、母親が仕事を休んだ時がありました。たぶん、僕と話をするためだったんでしょうね。お昼どき、母はと向かい合って話をしました。母は、1人のチームメイトの名前を挙げました。もっとも僕を「口撃」していたチームメイトでした。「こいつがあんたをやったの?」、と聞かれました。僕はなんで知っているんだろう?と、思いましたが、それと同時に涙が出てきました。ああ、やっと分かってくれた。そんな気分でした。僕は、母に全てを話しました。この時すでに、母は学校に乗り込んでいたようです。もともと、気が早くて勝ち気な母だったので、担任や顧問からいろいろ聞き出していたんですね。
僕の話を、母は静かに聞いてくれました。全てを話し終わると母は、「辛かったね、あんたが行きたくなかったら学校には行かなくていいから」と、言いました。これは嬉しかったですねえ。安心しました。両親といえども、なかなかできることじゃないですよ。狭い田舎なので世間体もありますし、成績は?高校は?なんて、不安要素だらけですから。でも、分かってくれた。それだけで僕は幸せでした。
しかし、不登校は僕だけの問題で終わりませんでした。僕の弟は当時1年生で、同じ野球部でした。そして、同じ学校の同じ部活に、不登校になった兄がいます。僕です。
お分かりになるかも知れませんが、僕が不登校を始めてから3ヶ月後、弟も学校に行かなくなりました。当然といえば当然です。環境が悪すぎますよ。でも当時の僕からすると、弟の不登校は意外でした。確かに僕は「口撃」を受けていましたが、弟も見ている手前、それを受け流す術も心得ていました。つまり、「いじられキャラ」として、弟の目に映るようにしていました。おどけていて、わざとアホなことをしたり、そういったキャラを演じていれば、少なくとも「イジメられている兄」ではなく、「イジられている兄」でいることができました。なので弟はおそらく、僕が不登校になって初めて、僕が「イジメられていた」ことを認識したんじゃないかなと思います。
何はともあれ、我が家は一家に不登校の兄弟が2人いる、という状況になりました。僕が中学2年の12月のことでした。
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はい、今回はこんな感じです。
ちょっと補足しておくと、僕は3人兄妹です。弟の他に、さらに妹がいます。もう3人とも成人して、たまーに飲みに行ったりもするんですが、みんな意識してかしらずか、この時期の話題は避けてますね。笑
というか、あまり昔話をしません。両親もその傾向があります。みんなそれぞれ、生きるのに必死で思うことも色々あったと思うので、一度だけでも、当時どんなことを思っていたのか話してみたいですねえ。もちろん、僕も話しにくい話ではあるんですが…。笑
でも、兄弟が不登校になるって普通のことなんですかねえ?あまり聞いたことないんですが、歳が1つ違いと、近かったのも原因かも知れませんね。歳が離れていれば、少しは気にしないような気もします。僕には分かりませんが。笑
というわけで、続きはまた次回書きます。長くてとりとめのない話、今回も読んでくださった方には感謝しています。
それでは、また。
9月から学校ヤメます。2
こんにちは、フータロです。
ブログを書いてて思ったんですが、やっぱり長い文章を書く時はPCが必須ですね…。パソコンを研究室に置いてるので、家にはPCがないんですよ。なのでiPhoneから投稿してるわけなんですが、しっくりきませんねえ…。笑
さて、前回は僕が不登校に至るまでの経緯を書いてみました。いま思うと大した経緯じゃないですが、当時の僕としては不登校になるファクターが揃っていたのかなとも思います。今回は続きです。
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こうして不登校になった僕ですが、3日間は完全に引きこもった状態でした。家族もわかってくれない、信用できない…。そんなわけで、僕は家族と接触を断つために、部屋の内部からドアを塞ぎました。鍵がなかったんですよ、僕の部屋は。普通ないのかな?
とにかく、家族が出かけた時を見計らって台所からパンを持って行ったり、夕食どきなどで自分の部屋から遠ざかっている時にトイレに行くのと水を飲む以外は、部屋から出ませんでした。それが、「もう学校には行かない」という意思表示でした。夕食のときは部屋の外に食事を用意してくれてましたが、それにも手はつけませんでした。「思ったよりも接触ないな...。」これが当初の感想でした。
ですが、初日からナーバスになったのは、祖父の存在でした。祖父だけは日中家にいるんですよね。そして、新学期に学校に行かなかったことを知ると、部屋の前で「行け!」って怒るんですよね。僕はそれにも無言で答えました。
ほんとは、僕はおじいちゃんっ子だったんですよ。両親が共働きだったので、昔は保育園の送り迎えから、一緒に散歩に行ったりと、本当によく面倒を見てもらってました。いま思うと、両親と過ごす時間よりも祖父と過ごした時間のほうが長かったようにも思います。それに、祖父は僕にすごく期待してたんですよ。テストでいい点を取ると、将来を期待してくれて、運動会で活躍すると、褒めてくれたり…。両親の代わりになってくれてました。
そんなわけで、祖父が僕の行動をようにんできるわけなんかないんですよ。それに、古い時代の人なので、学校に行かないことは、怠け以外の何物でもないと思ってたんじゃないですかね…。あとは田舎なので、当然世間体も気にしますし…。その祖父の声は、次第に泣き声に変わっていきました。部屋の前で、「お前が学校に行かないなら、俺は死んでしまいたい」って言うんです。僕は声を押し殺して泣きました。なんでそんなこと言うんだ、という怒りと、申し訳なさで仕方なかった。
そんなことが3日間続きました。その日は土曜日でした。休みの日になると、家族で揃って買い物に行くのが、うちの休日でした。僕は、家族が買い物に出たところを見計らって、水を飲みに洗面台に行きました。すると、父に出くわしました。笑
フェイントをかけられてたんですよね。しまった!と思いましたが、父は笑って、「メシは食えよ」と言い残して、今度こそ買い物に行きました。こんな対応できるんだ、とちょっと父を見直すと同時に、もうそろそろ出てもいいかな、と思えたので、僕はその日で引きこもりをやめました。これはどういう意味かというと、「家族公認の不登校」になることができたんです。もちもん、父も最初のうちは部屋から出せたからもう一歩だ!と考えたんだと思いますが、「今日は学校いかんのか?」と毎朝聞いてきましたが、行かない!と言い続けていると、しばらくして諦めてくれました。笑
あ、今回は母が出てきませんが、もちろん母も「家族公認の不登校」に協力してくれましたよ。それはまた次回書きますね。
今になって思うのは、「家族公認」なんて言ってますが、両親を始めとした家族にとっては非常な精神的負担だったことは想像に難くありません。でも当時の僕にとって、通学バスに乗ったり、教室に入ったり、クラスメイトやチームメイトと顔を合わせるということは、非常に困難でした。それを理解してくれた家族に、当時から10年近く経った今でも、感謝せずにはいられません。ほんとにありがとね。
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今日はこの辺にしておきますね。次回、不登校が不登校を呼びます…。
ではまた。
9月から学校ヤメます。
こんにちは、フータロです。
やっとブログが現実に追いつきました。笑
今日は日曜日なんですよね。おそらく人生最後の夏休みなので、思いっきり曜日感覚が狂ってます…。
人生最後と書きましたが、いま書いてる論文が通らなかったら、もう一度…という可能性もなくはないわけで…。そんな風に考えないようにしてますが。笑
ところで夏休みといえば、おそらく高校生くらいの人たちはそろそろ新学期になりますよね。なんとなく憂鬱…という人も、いますよね。
僕が不登校になったのも、夏休みが明けた時でした。今となっても、その時考えていたことが思い出せます。
僕は小学校から野球をやっていました。とてもとても弱いチームのピッチャーでしたが、野球が大好きで、休みになれば父親と弟と、時には妹と近所の廃校になった中学校のグラウンドで練習していました。楽しかったですねえ、本当に下手くそでしたが…。
僕が入学した中学校は田舎の中では結構大きい学校で、僕の小学校を含めて3つの小学校から生徒が集まっていました。
今まで親しんできたクラスメイトとは違う生徒がいる…。確かに緊張はしましたが、それでも一味違う学校生活に期待していました。
中学校ではもちろん、野球部に入部しました。野球部はそれなりに人気があって、人数もわりと多かったと思います。同じ小学校から野球部に入部したのは、僕を含めて3人。もちろん、元チームメイトでした。そのうちの1人は中学校のクラスも一緒になりました。もともと仲良くしてたので、知らない子が多い中で、すごく安心したのを覚えています。
野球部の練習は厳しかったですね、当たり前ですが。先輩もやたらと怖かった…。やっぱり大きい学校なので、小学校みたいにのほほんとはしてないんですよね。僕はそのギャップについていけなかったような気がします。そして練習にも、次第についていけなくなります。
僕はかなり下手くそだった気がします。今さらですが。笑
その「下手くそ」が、次第に僕を追い詰めていきました。アップのキャッチボールも下手くそ、バッティングピッチャーをやっても、ストライクに放れない。自己嫌悪と同時に、チームメイトのイライラの矛先が向けられるようになりました。そのうち、キャッチボールの相手を探すのに苦労するようになりました。たまに背番号をもらって試合に出ても、エラーをすると冷たい視線が集まってきます。小学校からのチームメイトも離れていき、次第に僕を揶揄するようになりました。
それでも、僕は野球をやめようとは思いませんでした。もちろん野球が好きでしたし、1人だけ、信頼している先輩がいたからです。
その先輩も、僕と同じ小学校で野球をやっていた人でした。当時の僕から見ても、お世辞にも野球が「できる」人ではありませんでしたし、そして何よりも熱血系でした。最初、僕はちょっと苦手でしたが、その先輩はいつでも僕に話しかけてくれたり、キャッチボールの時に組んでくれたりしました。なので、完全に孤立していたなんてことはなかったように思います。
そんな感じで、僕は2年生になります。
2年生になって間もない頃、僕はある事件を起こしました。部活が終わった帰宅途中、本屋に寄っていたのをクラスメイトに見つかったのです。僕の中学校では、帰宅途中にどこかに寄る、ということが禁止されていました。なぜかは分かりませんが、とにかく厳禁でした。でも、僕はその規則を知らなかったんですよね。どうしてなんだろう…。あんまり興味なかったのかなあ。笑
とにかく、僕は毎月ベースボールマガジンを買っていて、少しでも野球が上手くなりたい一心でした。そこを運悪く?見つかったのです。僕は先生には言わないでくれと、目撃者の女の子2人に頼みましたが、その願いもむなしく、翌日、僕は担任に呼び出されます。いま思えば、告げ口するメリットがどこにあったのか?と甚だ不思議なんですが、何かが原因で嫌われてたんですかねえ…。
担任は職員室に僕を呼び出しました。いや、なんとも嫌ですよね。衆人環視の場で説教くらうっていうのは…。担任は部活動が停止になるかもしれないと、僕に伝えました。この部活停止っていうのは、主語が「僕」じゃないんですよ。なぜか、野球部全体が活動停止なんです。そんなことってありますか?当時の僕は弁解もできませんでした。
その話は顧問にも伝わり、僕は部員の前に立って、謝罪することになりました。なんと言って謝ったかは、どうしても思い出せません。ただただ、悔しかった。その当時、僕の弟も野球部入ってきてたんですよね。そんな姿見られたくないですよ。
この時から、僕の学校での立場はかなり変わった気がします。とにかく担任にしても、顧問にしても、あまり信用できなくなりました。でも、先輩だけは変わりませんでした。
この頃からですね、僕の成績が落ちてきたのは。1年生の頃はかなりの成績を維持していたと思います。ですが、以降は勉強する気力も無くなっていきました。合格点を取れなくて居残りすることもありましたし、なんとなく、学校行きたくないなと思い始めたのも、この頃だったと思います。
僕は、たまに部活を休むようにもなりました。とにかく行きたくない…。ですが、楽しみもありました。顧問から、スコアをつけてみないかと言われたんですよ。当時、マネージャーが引退していて、スコアラーがいなかったんですよね。で、イヤだとも言えるはずもなく、引き受けました。かっこわりいなあ、と思いましたね。ところがどっこい、スコアってつけてみると面白いんですよね。試合展開というか、一球一球を記録するので、いちいち文字にしてらんないんですよ。だから、記号があります。でもスコアつけたことがないと、スコアってなかなか読めません。言ってみれば、自分にしか分からない暗号でした。それをもとに、試合後の総括なんかをするわけです。あ、俺って結構役に立ってる?と思いました。それが、楽しみになりつつありました。でも、スコアをつけてるってことはプレーヤーとしてグラウンドに立てないってことだよな、とやっぱりちょっと情けない気持ちにもなりました。
そんな時、事件が起こります。夏休み直前の土曜日、遠征がありました。いつも通り嫌々ながら集合場所まで行くと、あれ、先輩いないな…。めったにというか、全く休む場面を見たことがなかったので、不思議に思いましたが、遠征は滞りなく終わりました。
翌日、野球部の連絡網が回ってきました。先輩は亡くなっていました。
原因は何なのか、いつ亡くなったのか、何も分かりませんでした。14才でも人は死ぬんだ、と先輩の顔を見て思いました。身近な人を亡くしたのは祖母に続いて2人目でしたが、なんとなく、実感がわきませんでした。明日も部活に行けば、よう!なんて声かけてくれる気がしましたね。
先輩がいない部活は不安そのものでした。ですが、僕は部活をやめませんでした。夏休みに入って、練習は厳しさを増し、それに比例して僕はミスを重ねました。いま思えば、よく持ったなとつくづく思いますが、それも夏休みまででした。
夏休み前日、始業式の提出物を確認していた僕は、自由研究をやっていなかったことに気づきました。ヤバイなと思いましたが、これからできる自由研究って?何も思いつかないし、どっかから真似るか?いや、そんなことすぐバレる…じゃあどうする?と考えた末に、正直に担任に話そうと決めて寝ることにしました。
いま思えば、なんやねん自由研究くらい!そんなんテキトーでええねん!すっぽかしたれ!なんて言えますが、当時の僕はかなり思考が固まってて、とてもとても、そんなことできませんでした。笑
逆に言えば、それができてれば少し違う人生になったのでは…とも思います。
翌日、僕は布団から出ることができませんでした。母親と父親がかわるがわるに起こしにきます。最初は急かしに、そして、次第に怒りをぶつけてきました。
僕は中学校までバスで通ってたので、遅くとも7時30分にはバス停にいく必要がありました。僕は、そのバスを布団の中から見送りました。こうなると、もう学校に行くには両親の車で行くしかありません。幸い、父親の職場が中学校と近かったので、間に合わなかった場合は送ってもらっていました。しかし、僕はそれも拒否。勝手にしろ、と言われて僕は布団の中で1日を過ごしました。
今頃、学校は始業式だなあ、俺がいなくてみんなどう思ってんのかなあ、なんてことを考えると、もう学校に行ける日はこないのでは…となんとなーく感じました。その予感は8割方、的中することになります。
中学2年の9月から、僕は学校に行かなくなりました。
あれ、ちょっとおかしいな。2
そしたら、繋がりましたねー。
深夜は厳しいだろうと思ってたので、ちょっとテンパってしまいました。
女性の相談員の方が対応してくれました。
が、自分の方はなかなか第一声が出てきませんでした。
見かねた?相談員の方が、まず住所と年齢を聞いてきました。
これでようやく落ち着いて話ができるように…。
ですが、ただ話を聞いてもらうのもためらわれました。なぜならこの電話番号、フリーダイヤルじゃないんです…。いちおう内閣府がイニシアチブをとってやっている感じだったのですが、電話相談にあまりお金をかけるのも本末転倒な気がしたので、あまり長い時間はかけられないなーと思いました。それから、できれば相談員の方が話を引き出してくれればありがたいなーくらいの他力本願でした。笑
なので、今回も精神的に参っていて、かつそれが発達障害を原因とするものだと思っている旨、そして、適当な受診機関があれば教えて欲しい旨伝えました。
すると相談員の方は、なぜそう思うのか?いつから悩んでいるのか等々、いろいろ話すチャンスを与えてくれました。
僕は、大学院生であること、研究をしなければならないのにうまくいっていないこと、以前から自分の学習能力に疑問を抱いていたことを伝えました。そして、なかなか決断ができずに周囲の人に迷惑をかけたことも。
そして、発達障害の電話相談窓口があることを教えてもらい、そこに一度相談してみたらどうかとアドバイスを頂きました。
僕もまあ、その方がいいだろうなと思いました。相談員の方からすると、大学院まで行っているのになぜ発達障害?と、ちょっと疑問だったらしいので、その辺の専門的な知見は持ち合わせてなかったのがわかりました。
ですが、僕の目的は話を聞いてもらうことだったので、全く不満はありませんでした。相談員の方は終始、僕の話を遮らず聞いてくれたし、話を引き出してくれました。おかげで、僕としてはかなり話した方だと思います。
いくぶん心が軽くなったような気もします。
ただ、自分の話をしていて、同時にそれを客観的に聞いてると、明らかに日常生活に支障をきたしているのが分かって、ちょっとショックを受けました。
なんにせよ、深夜に30分近くもの相談を親身になって受けてくれた相談員の方には感謝しています。やっぱり話す相手がいるというのは素晴らしいことなんですよね。うん。
というわけで、昨夜の某電話カウンセリングと比べると、心の健康相談統一ダイヤルは比べものになりませんね。いい意味で。
正直、ここまで期待していなかったのもありますが、おすすめできる電話窓口だと思います。たまたま、僕が良い相談員の方に当たっただけかもしれませんが…。
でも、おかげでちょっとはよく眠れる気がします。明日は、がんばる。