フータロも悩めます。

犬でも悩むことあるんすよ。わんわん。

9月から学校ヤメます。4

こんにちは、フータロです。

このブログの名前にもなってる、フータロなんですが、僕の実家で飼ってる犬なんですね。ちょっと名前は変えてますが…。ちょっと今日は続きを書く前に、フータロのことを紹介します。
フータロがうちにやってきたのは、9年前。末っ子の妹がダダこねて、ホームセンターのペットコーナーから連れてきたのが始まりでした。ですが、僕も含めてうちは家族全員が動物嫌いで、僕が小さな頃に猫を連れて帰った時も、結局追い出されてしまったような感じでした。なので、犬を飼うなんて大反対…されると思ってたんですが、末っ子のお願いっていうのは聞き入れられるものなんですね。フータロはうちの家族になりました。笑
とはいえ、最初のうちは誰も世話の仕方がわからず、「いぬのきもち」で勉強していたようです。ようですっていうのは、僕はフータロが家に来た頃からちょうど高校生になって、実家を離れてたんですね。だから、フータロとの接触は週末だけ。最初のうちは散歩にすら行きませんでした。ですが、妹のフータロ熱が冷めてくると、必然的に世話を押し付けられるように…。まあ、そのおかげでフータロとも仲良く?なれたように思います。現在でも帰省するたびに、たっぷり2時間は散歩に行きます。
フータロってちょっとドジというか抜けてるというか、柴犬のくせに忠犬って感じがしないんですが、僕はそんなとこが好きです。それに、結構強がりなんですよね。人に興味なさそうな感じを装ってるんですが、実は人間が好きなとことか、猫に威嚇されて逃げちゃうとことか、なんだか僕とすごく気があうと思うんですよ。
僕とフータロが散歩に行くと、必ず海岸通りに出るんですが、そこで腰掛けて2人(1人と1匹?)で海を眺めます。ぼーっとして、ふと隣のフータロを見ると、なんかちょっといつもとは違う顔をしてる気がするんですよね。いつもはあんまり緊張感のない柴犬らしからぬ顔をしてるんですが、その時はちょっと物憂げというか、そんな顔をしていました。そこで、フータロも悩んでんのかなあ、と思いました。たぶんフータロからすると、「悩めるに決まってんだろ!」って感じだと思うんですが…。笑
そりゃあ悩みますよね。フータロ、君はどんな悩みを抱えてるんだい?とちょっと聞いてみたくなりました。で、ブログを書こう!と思った時に、このタイトルにしたんです。前にも書きましたが、かわいくていい奴ですよ、フータロって。
さすがに、拾い食いをして死にかけた時はバカだなーと思いましたが。笑

この夏は残念ながら帰省できないので、会えないのが残念ですねえ。たぶん次に会えるのはお正月かな。まだフータロをブログに使ってることを話してないので、ちょっと散歩中に報告してみようかな、と思います。

さて、前置き長くなっちゃいました。前回の続きを書きますね。前回は僕に引き続いて弟も不登校になってしまった…というところまでお話ししましたよね。で、思ったんですが、僕は自分の体験を書きたくて書いてるわけなんですが、一方で弟の方はこの頃の出来事を、承諾なく僕の口から語って欲しくはないだろうな、と思うんです。あ、おそらく妹もですかね。たぶん僕のように自分のことを話したい、と思うのは他でもない自分自身の意思があってのことですよね。なのでこのブログで、少なくともこの時期の話をする時は、どうしても必要でない限り、弟と妹のことは触れない、ということにしたいと思います。勝手な感じで申し訳ないんですが、よろしくお願いします。

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こうして、僕と弟は不登校になりました。この時から、僕と弟は次第に口をきかなくなりました。お互い、かっこ悪いと思ってたんじゃないでしょうかね。僕の方も弟に申し訳ないと思ってましたから…。

話は飛んでしまいますが、現在は普通に話しますよ。笑
いつからか分かりませんが、たぶん大学に入ってお互いに一人暮らしを始めてからじゃないかと思います。まだ多少ギクシャクはしますが、長い年月を経て、また兄弟っぽくなってきたと感じています。わりと心配かけてたみたいなんですよね、家族や親戚に。お正月に帰省して親戚のおじさんと話した時、「確執はもう大丈夫なのか?」と聞かれましたね。笑
でももう大丈夫です。

で話を戻すと、この状況に苦しんだのは両親と妹も同じでしょう。両親は心配ごとが2倍に増えるわけですし、妹も歳が離れているとはいえ、友達を家に呼んだりなんかはできなくなりますよ。ですが、家族が崩壊する…なんてことはありませんでした。いま思うと奇跡だったのかもしれません。笑

それから、担任や小学校の頃にお世話になった先生が家庭訪問に来るようになりました。
担任と会うのは正直気が重かったですね…あからさまに学校に来いとは言いませんでしたが、いつか言われるなと思いましたから。逆に小学校の頃の先生とは、とても会うのが楽しみでした。僕が読書好きなのを知っている先生だったので、本を貸してくれたり、いろんな思い出話をしたりと、本当に助かりましたねえ。それから親戚のおじさんも、手紙と一緒にたくさん本を貸してくれました。おじさんの家にはよく本とかマンガを読みに通いつめてましたから、俺のことをよく知ってくれてたんですね。なんか、恵まれてましたね、本当に。いい意味で、学校だけが居場所じゃないんだって教えてくれました。

春になると、僕は不登校のまま3年生になりました。その頃から、家族で休日にドライブに行くことが増えました。僕は昼間から堂々と散歩に行くこともありましたが、両親が、やっぱり外にいる時間が短いことを心配してくれたんだと思います。友人に会う心配がない山奥まで、お弁当を持ってドライブに行ってました。これはすごく気分転換になりました。それから、父親と夜に走りに行ったり…。この頃になると両親を煩わしいと思う気持ちはほとんどなくなりましたね。むしろコミュニケーションをとる時間が増えて、ありがたいなと、思ってました。

3年生って、いろいろ「最後のイベント」が増えてきますよね。最後の体育祭、最後の文化祭、そして卒業式。そんなイベント前になると、友人からの手紙や電話がくるようになりました。時には、直接訪ねてくることも。この頃になると、僕もさすがに学校に行くのは無理でしたが、親しい友人とは会えるようになってきました。休みの日に僕の部屋で、クラスでこんなことが起こって、誰々が生徒会長になったとか、近況をいろいろ教えてくれました。それから、休日にはボウリングに行ったり、夏には花火をしに行ったり、僕も少しずつ外の世界に慣れていきました。

ですが、学校には相変わらず行く気になれませんでした。そもそも今更いく必要があるのか?と思ってました。ですが、現実はそうはいきません。受験が控えています。ある時、僕はどこから仕入れた情報かは忘れてしましましたが、高校には行かずに高卒認定試験を受ける!と親に断言しました。僕はここまでの感じで、両親はこの願いも聞き届けてくれる、と思ってました。ですが、これには猛反対を受けました。当然といえば当然ですが…。笑
高卒認定試験がどの程度のものかも知らずに、完全に思いつきだったので、もしそうしていたら、と思うと…あまり考えたくないですね。笑
とにかくそれは認められませんでした。僕が高校に行きたくなかった理由は簡単です。僕はクラスメイトと同じ高校になってしまうことを恐れていました。なので、高校には行かない!と思ってたんですよね。ですが、これに反対されてしまうと、万事休す、です。僕は真剣に高校進学を考えることになります。しばらくして僕に名案が浮かびます。出来るだけ地元から離れた高校に行こう!そうすれば誰も知らない学校で再スタート出来る!ということです。笑
このアイディアを、僕は信頼できる先生に伝えてみました。正直、先生も困ったと思います…。ですが、一つの高校を勧められました。なんと、県内で上から数えて3番目の高校でした。笑
そりゃあ無謀ですよ。ですが、僕は目指すことにしました。両親も、「まあやってみれば。笑」という感じで、承諾してくれました。そうなると、問題は学力です。高校入試って学力試験プラス評定ですよね?ですが、僕の評定は、不登校になった2年の2学期以降、すべての教科で5段階中の1か2でした。そりゃあ出席してないですから、当たり前です。それにこの先も学校に行く気はほぼありませんでしたから、僕の武器は学力しかありません。で、問題の学力はというと…惨憺たるものでした。笑
不登校の間、ろくに勉強なんてしてません。本は読んでましたが。特に英語と数学はボロボロ。しかも僕の志望校は英語と数学の配点が高かったので、これは致命的でした…。

そうこうするうちに、夏休みが明けます。受験生はとっくに仕上げの段階に入るところです。その頃、担任からあるアプローチがありました。「放課後、学校に来てみないか?教科担当の先生も勉強くらい見るぞ」と。こうなると、背に腹は代えられません。僕は1年ぶりに学校に足を踏み入れます。僕の両親は当時共働きで夕方にはまだ帰ってきませんでしたし、祖父は運転ができません。そこで、ありがたいことに担任が車で迎えに来てくれることになりました。これにはさすがに頭が下がりましたね…。やられたなあ、と。

で、放課後担任に付き添われて学校に行ってみると…意外と普通でしたね。笑
まあ、正面玄関からではなくて、職員用玄関から入るという徹底ぶりでしたが。数学の先生もしっかり教えてくれました。一応2年の途中までは授業を受けてたのですが、1年間全く手をつけなかった教科なので、ほとんど忘れてましたね…。それでも根気強く教えてくれました。それから、理科なんかも担当の先生が教えてくれました。こんな感じで放課後補習が終わると、両親が車で迎えに来るまでいろんな先生が、部活が終わって誰もいなくなった体育館でバスケに付き合ってくれました。これが、僕の学校復帰の第一歩でした。
帰りに父親が迎えに来てくれたんですが、やっぱり嬉しそうな顔してましたね。笑

そんな感じで、僕は週に2、3日程度、学校に行くことになりました。
あ、英語に関しては、偶然先生の帰り道の途中に僕の家があったので、家庭訪問してもらってました。これは本当にありがたかったです。

こうして、季節は冬になっていきました。3年生の3学期。中学生活最後の学期です。
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はい、今回はこんなとこですね。
毎回書いてて思うんですが、僕は周囲に恵まれてましたね。最初は反発していた担任も、僕の意思は尊重してくれて、放課後に登校するというのも僕の判断に任せてくれました。できるだけのサポートはする、と約束してくれましたし、それを守ってくれました。教科担当の先生方にも恵まれました。残業ですよね、こんなの。笑
おかげで今の僕があります。誇れる人間ではないかもしれないけれど、社会で生活していくだけのことはできます。僕の力だけでは如何ともしがたい場面でしたが、十分すぎるくらいサポートしてくれた結果です。
それから、勉強以外の教養を教えてくれた小学校の先生、親戚の方などなど。あのサポートがなかったら、僕の今の感性は育たなかったと思います。この場を借りて、サポートしてくれた方々には、ありがとう、を伝えたいです。
また、一番身近で支えてくれた家族、特に両親には、いつか直接感謝の気持ちを伝えたいですねえ。

まだ話は続きますが、とりあえずこの話は次で終わりにするつもりです。ブログを始めて数日経ちましたが、アクセスして下さっている方々、読んで下さっている方々にも感謝しています。ありがとうございます。

それでは、また。