フータロも悩めます。

犬でも悩むことあるんすよ。わんわん。

9月から学校ヤメます。

こんにちは、フータロです。


やっとブログが現実に追いつきました。笑

今日は日曜日なんですよね。おそらく人生最後の夏休みなので、思いっきり曜日感覚が狂ってます…。


人生最後と書きましたが、いま書いてる論文が通らなかったら、もう一度…という可能性もなくはないわけで…。そんな風に考えないようにしてますが。笑


ところで夏休みといえば、おそらく高校生くらいの人たちはそろそろ新学期になりますよね。なんとなく憂鬱…という人も、いますよね。


僕が不登校になったのも、夏休みが明けた時でした。今となっても、その時考えていたことが思い出せます。


僕は小学校から野球をやっていました。とてもとても弱いチームのピッチャーでしたが、野球が大好きで、休みになれば父親と弟と、時には妹と近所の廃校になった中学校のグラウンドで練習していました。楽しかったですねえ、本当に下手くそでしたが…。


僕が入学した中学校は田舎の中では結構大きい学校で、僕の小学校を含めて3つの小学校から生徒が集まっていました。

今まで親しんできたクラスメイトとは違う生徒がいる…。確かに緊張はしましたが、それでも一味違う学校生活に期待していました。

中学校ではもちろん、野球部に入部しました。野球部はそれなりに人気があって、人数もわりと多かったと思います。同じ小学校から野球部に入部したのは、僕を含めて3人。もちろん、元チームメイトでした。そのうちの1人は中学校のクラスも一緒になりました。もともと仲良くしてたので、知らない子が多い中で、すごく安心したのを覚えています。


野球部の練習は厳しかったですね、当たり前ですが。先輩もやたらと怖かった…。やっぱり大きい学校なので、小学校みたいにのほほんとはしてないんですよね。僕はそのギャップについていけなかったような気がします。そして練習にも、次第についていけなくなります。


僕はかなり下手くそだった気がします。今さらですが。笑


その「下手くそ」が、次第に僕を追い詰めていきました。アップのキャッチボールも下手くそ、バッティングピッチャーをやっても、ストライクに放れない。自己嫌悪と同時に、チームメイトのイライラの矛先が向けられるようになりました。そのうち、キャッチボールの相手を探すのに苦労するようになりました。たまに背番号をもらって試合に出ても、エラーをすると冷たい視線が集まってきます。小学校からのチームメイトも離れていき、次第に僕を揶揄するようになりました。


それでも、僕は野球をやめようとは思いませんでした。もちろん野球が好きでしたし、1人だけ、信頼している先輩がいたからです。

その先輩も、僕と同じ小学校で野球をやっていた人でした。当時の僕から見ても、お世辞にも野球が「できる」人ではありませんでしたし、そして何よりも熱血系でした。最初、僕はちょっと苦手でしたが、その先輩はいつでも僕に話しかけてくれたり、キャッチボールの時に組んでくれたりしました。なので、完全に孤立していたなんてことはなかったように思います。

そんな感じで、僕は2年生になります。


2年生になって間もない頃、僕はある事件を起こしました。部活が終わった帰宅途中、本屋に寄っていたのをクラスメイトに見つかったのです。僕の中学校では、帰宅途中にどこかに寄る、ということが禁止されていました。なぜかは分かりませんが、とにかく厳禁でした。でも、僕はその規則を知らなかったんですよね。どうしてなんだろう…。あんまり興味なかったのかなあ。笑

とにかく、僕は毎月ベースボールマガジンを買っていて、少しでも野球が上手くなりたい一心でした。そこを運悪く?見つかったのです。僕は先生には言わないでくれと、目撃者の女の子2人に頼みましたが、その願いもむなしく、翌日、僕は担任に呼び出されます。いま思えば、告げ口するメリットがどこにあったのか?と甚だ不思議なんですが、何かが原因で嫌われてたんですかねえ…。


担任は職員室に僕を呼び出しました。いや、なんとも嫌ですよね。衆人環視の場で説教くらうっていうのは…。担任は部活動が停止になるかもしれないと、僕に伝えました。この部活停止っていうのは、主語が「僕」じゃないんですよ。なぜか、野球部全体が活動停止なんです。そんなことってありますか?当時の僕は弁解もできませんでした。

その話は顧問にも伝わり、僕は部員の前に立って、謝罪することになりました。なんと言って謝ったかは、どうしても思い出せません。ただただ、悔しかった。その当時、僕の弟も野球部入ってきてたんですよね。そんな姿見られたくないですよ。

この時から、僕の学校での立場はかなり変わった気がします。とにかく担任にしても、顧問にしても、あまり信用できなくなりました。でも、先輩だけは変わりませんでした。


この頃からですね、僕の成績が落ちてきたのは。1年生の頃はかなりの成績を維持していたと思います。ですが、以降は勉強する気力も無くなっていきました。合格点を取れなくて居残りすることもありましたし、なんとなく、学校行きたくないなと思い始めたのも、この頃だったと思います。


僕は、たまに部活を休むようにもなりました。とにかく行きたくない…。ですが、楽しみもありました。顧問から、スコアをつけてみないかと言われたんですよ。当時、マネージャーが引退していて、スコアラーがいなかったんですよね。で、イヤだとも言えるはずもなく、引き受けました。かっこわりいなあ、と思いましたね。ところがどっこい、スコアってつけてみると面白いんですよね。試合展開というか、一球一球を記録するので、いちいち文字にしてらんないんですよ。だから、記号があります。でもスコアつけたことがないと、スコアってなかなか読めません。言ってみれば、自分にしか分からない暗号でした。それをもとに、試合後の総括なんかをするわけです。あ、俺って結構役に立ってる?と思いました。それが、楽しみになりつつありました。でも、スコアをつけてるってことはプレーヤーとしてグラウンドに立てないってことだよな、とやっぱりちょっと情けない気持ちにもなりました。


そんな時、事件が起こります。夏休み直前の土曜日、遠征がありました。いつも通り嫌々ながら集合場所まで行くと、あれ、先輩いないな…。めったにというか、全く休む場面を見たことがなかったので、不思議に思いましたが、遠征は滞りなく終わりました。

翌日、野球部の連絡網が回ってきました。先輩は亡くなっていました。

原因は何なのか、いつ亡くなったのか、何も分かりませんでした。14才でも人は死ぬんだ、と先輩の顔を見て思いました。身近な人を亡くしたのは祖母に続いて2人目でしたが、なんとなく、実感がわきませんでした。明日も部活に行けば、よう!なんて声かけてくれる気がしましたね。


先輩がいない部活は不安そのものでした。ですが、僕は部活をやめませんでした。夏休みに入って、練習は厳しさを増し、それに比例して僕はミスを重ねました。いま思えば、よく持ったなとつくづく思いますが、それも夏休みまででした。


夏休み前日、始業式の提出物を確認していた僕は、自由研究をやっていなかったことに気づきました。ヤバイなと思いましたが、これからできる自由研究って?何も思いつかないし、どっかから真似るか?いや、そんなことすぐバレる…じゃあどうする?と考えた末に、正直に担任に話そうと決めて寝ることにしました。

いま思えば、なんやねん自由研究くらい!そんなんテキトーでええねん!すっぽかしたれ!なんて言えますが、当時の僕はかなり思考が固まってて、とてもとても、そんなことできませんでした。笑

逆に言えば、それができてれば少し違う人生になったのでは…とも思います。


翌日、僕は布団から出ることができませんでした。母親と父親がかわるがわるに起こしにきます。最初は急かしに、そして、次第に怒りをぶつけてきました。

僕は中学校までバスで通ってたので、遅くとも7時30分にはバス停にいく必要がありました。僕は、そのバスを布団の中から見送りました。こうなると、もう学校に行くには両親の車で行くしかありません。幸い、父親の職場が中学校と近かったので、間に合わなかった場合は送ってもらっていました。しかし、僕はそれも拒否。勝手にしろ、と言われて僕は布団の中で1日を過ごしました。

今頃、学校は始業式だなあ、俺がいなくてみんなどう思ってんのかなあ、なんてことを考えると、もう学校に行ける日はこないのでは…となんとなーく感じました。その予感は8割方、的中することになります。


中学2年の9月から、僕は学校に行かなくなりました。